資料 小野神社
創建記録
社伝には「安寧天皇18年」創建。
神武天皇から3代目の神話の天皇の時代。紀元前になり縄文の終わりか弥生時代の初めになる。その社伝とはどうしたものでどこにあるのか?
755年 奈良時代 「太政官符」という古文書
(朝廷から)「武蔵国の幣帛(へいはく・神に奉<たてまつ>るもの)に預(あず)かれる社は多磨郡 野社加美郡・・・」の文字。1文字部分が紙の上端切れ。4社の筆頭に記載。
奈良時代〜平安時代の瓦
現境内から発掘され、製法から時代が鑑定された。小野神社の敷地に瓦葺きの建物が存在した証。南多摩で瓦を乗せた建物は国府、国分寺以外には限られたと思われる。
884年 平安時代 日本三代実録(九世紀後半の三代の天皇の時代の勅撰正史)
小野神の神階が正五位上に格上げを記載。なお氷川神は正四位上、秩父神は正四位下。
927年 平安時代 「延喜式」(律令の法典)
神名帳に「小野神社」の記載。「延喜式」の式内社(しきないしゃ)という。
パルテノン多摩特別展2005
「武蔵国一之宮(むさしのくにのいちのみや) 多摩市一ノ宮小野神社の変遷」図録より
多摩市には、中世の武蔵一宮であったと考えられる神社があります。それが多摩市一宮に位置する小野神社です。
小野神社は、奈良時代より史料に見え、『延喜式』神名帳にも載せられている式内社と考えられています。かつては「一宮大明神」とも呼ばれ、多摩市の「一ノ宮」という地名のもとにもなりました。武蔵国府の近隣に位置し、総社・六所宮(現・府中市大国魂神社)で一之宮として祀られることや『神道集』『吾妻鏡』の記載などから、小野神社が中世の武蔵一宮であったのではないかとも言われています。
しかしながら小野神社については資料が少なく、未解明の部分が多いのが現状です。身近でありながら、長い歴史と多くの謎を持つ小野神社。この特別展では、小野神社をめぐるさまざまな説や関連資料を紹介するとともに、その後の小野神社の変遷や六所宮とのかかわり、村の人々とのかかわり。祭礼の変遷など、多方面から「武蔵国一之宮」としての小野神社について考えてみたいと思います。
なお、本展示では、現在の小野神社の姿も取材させていただきました。長い歴史を持ちながら、人々に支えられて生き続ける神社の姿を、総体として感じていただければ幸いです。
最後になりましたが、本展の開催にあたっては、小野神社の氏子の方々をはじめ、たくさんの方にご協力をいただきました。厚く御礼申し上げます。
2005年2月 パルテノン多摩
財団法人多摩市文化振興財団
この図録は、小野神社について現在分かっていること、分かっていないこと、諸説のことが整理されている。
コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%BC%8F%E5%86%85%E7%A4%BE-72671
百科事典マイペディア
式内社【しきないしゃ】
延喜式(えんぎしき)の巻9・10の《延喜式神名帳(じんみょうちょう)》に記載された神社。延喜式内社とも,式社ともいう。原則として祈年祭(きねんさい)の官幣(かんぺい),国幣(こくへい)の奉幣にあずかる神社(官幣社・国幣社)で,3132座の記載がある。式内社は官幣社・国幣社とも大社,小社に区別され,その基準は幣物の多少であった。《神名帳》に記載されない神社を式外(しきげ)社と呼ぶ。
日本大百科全書(ニッポニカ)
式内社 しきないしゃ
『延喜神名式』(『延喜式神名帳』ともいう)に登載された当時の官社3132座(一社で複数の祭神が登載された神社もあり、社数では2861社)を式内社という。したがって『延喜式』成立の927年(延長5)以前創建の神社となり、いずれも1000年以上の歴史的生命のある宗教施設となる。それだけに廃絶した式内社や、それに該当すると称する神社が複数で論争している式内社もなかにはある。
「延喜式神名帳」の記事における「論社」
式内社の後裔が現在のどの神社なのかを比定する研究は古くから行われている。現代において、延喜式に記載された神社と同一もしくはその後裔と推定される神社のことを論社(ろんしゃ)・比定社(ひていしゃ)などと呼ばれる。 式内社の後裔としてほぼ確実視されている神社でも、確実な証拠はほとんど無く、伝承により後裔の可能性がきわめて高い論社という扱いである。延喜式編纂時以降、社名や祭神・鎮座地などが変更されたり、他の神社に合祀されたり、また、荒廃した後に復興されたりした場合、式内社の後裔と目される神社が複数になることもある。 論社には、他の研究によって後裔社だとみなされることもあるが、その神社自ら式内社だと主張することも多い。
多磨郡小野郷
「郷」は古代の地域の呼び方。
8世紀中頃に建てられた武蔵国分寺の瓦に「小野郷」の押印があり、奈良時代にすでに「小野郷」の地名が存在していた。小野郷は、小野神社や小野牧の遺物が発掘された落川一の宮遺跡あたりを含む多摩川南岸一帯と推定されている。町田市北部の地名「小野路」は小野郷に至る道の意で整合する。
しかしその「小野」という名前がどこから来たかはわからないようだ。
一説は、牧を運営した一族が小野姓だったので小野牧という名称が生まれ、小野牧がある郷だから小野郷となり、その地にあるから小野神社と名が付いたというストーリー。牧場の権力者が地域名になるものだろうかと懐疑する。
その「小野」性の人物、一族も素性がはっきりしていない。小野牧の運営者だから小野氏を名のった可能性がある。もしくは、中央貴族の小野氏が派遣されて来た可能性もある。研究の進展かタイムマシンを待つ状況だ。
ところで、先出の小野路にも小野神社があるが、そちらは972年に、国司で赴任して来た小野篁の子孫が篁(たかむら)を祀ったとなっている。近くに小野小町ゆかりとされる井戸がある。
武蔵の国の二つの一の宮
武蔵国が生まれ現在の府中に国府が置かれたころは、小野神社が一の宮で大宮の氷川神社は三の宮だった。 時代は移り社会構造も変化、室町、江戸時代には大宮の氷川神社が武蔵国の一の宮とされた。
パルテノン多摩特別展図録「武蔵国一之宮」24p 「一宮」の変遷 より要約
江戸時代後期に当時神社の行政を掌握していた吉田家から、六所宮にたいして「一宮」はどちらか?という質問書が出されています。それに対し六所宮の神職は「氷川神社を武蔵国の一宮、小野神社を六所宮の一宮」と回答している。府中大国魂神社の六所宮での一之宮は今も変わらず小野神社。
では、現代に有効な一宮はどちら? 現行の神社に一の宮、二の宮・・の序列はない。
ちなみに、それぞれの<一宮>の表現は
「武蔵国一之宮 小野神社」(むさしのくにのいちのみや)
「武蔵一宮 氷川神社」(むさしいちのみや)
多摩市一ノ宮という地名は「一之宮小野神社」からだし、大宮の地名は大きな宮氷川神社のことだ。 神社は人の神への思いを受け止める幻影装置なので、「一之宮」という修飾はそんな機能へのこだわりなのだ。
二つの小野神社
多摩川の府中市側対岸に「小野宮小野神社」というやはり小野神社がある。祭神は同じ天ノ下春命、瀬織津姫命の二柱。拝殿の後ろに本殿という建物の配置も同じだ。この二つの小野神社を考えてみる。書籍やネット上で出会う記事を繋ぎ合わせての想像だ。AIなら違う話になるかもしれない。
江戸時代の地誌に「往古多摩郡本宿村の小野宮と云処に鎮座ありしを、水災に依て遷され、村を一宮と称す」とあり、初めに(創建ということになるが)府中の崖線下に小野神社ができたことになります。共なって「小野宮」の地名が生じた。
当時の多摩川の広い河川敷を考えると(中河原などは河原の中だと地名自身が言っている)神社は氾濫にさらされたことだろう。 多摩川の氾濫から守ってもらうために水の神である瀬織津比売を祀ったことがここで納得できる。 そこで、対岸、多摩丘陵側に小野神社を遷座した。水害鎮護の神社だから丘の上までは行かない。
人々が移るわけではないので元の地で小野神社を祀り続けたのが府中市側の「小野宮小野神社」という経緯だ。
遷座の記録はないので、いろいろの説があるようだ。現在の六所宮では両社とも一之宮と扱われているらしい。大国魂神社のくらやみ祭りでも双方の氏子が共に一之宮の神輿を担ぐ。
パルテノン多摩特別展2005
「武蔵国一之宮(むさしのくにのいちのみや) 多摩市一ノ宮小野神社の変遷」図録より 9p
どちらが「小野神社」? 〜「一ノ宮」と「小野宮」〜
実は小野神社にも式内社論争があります。小野神社という名の神社は多摩市一ノ宮、府中市住吉町(小野宮)、町田市小野路町などにありますが、式内社として有力視されてきたのは一ノ宮と小野宮の2社です。
江戸時代の考証では、
1・周囲約8〜10尋(18m)の欅の古木があること、
2・「小野神社」という社名を持つこと、
3・「小野宮」という地名を持つこと
から、小野宮がもともとの式内社であるという説が出されました。
当時、一ノ宮が「一ノ宮明神社」と呼ばれていたこともあり。江戸時代の「新編武蔵風土記稿」「武蔵名勝図会」「武蔵野話」「江戸名所図会」などはいずれも小野宮を本来の式内社としており、戦乱や水災により一ノ宮に遷座したとするものもあります。しかし、一ノ宮には小野宮から遷座の伝承はありません。
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