準備中 関戸の九頭龍神社
関戸の九頭龍公園の一画にある「九頭龍神社」。とても小さな神社で、大きな祠という風情の拝殿だ。小ぶりの鳥居があり隣に社務所らしきもある。質素な造作の向こうに漂着神という一味異なる創建のドラマがあり、何より九頭龍伝承というファンタジーに触れる機会をもたらしてくれる。都内に龍神を祀る神社はあっても、九頭龍を祀るのは二社だけ。
由来の表示がある。
由 緒 中世のある大洪水の折、川上から関戸大河原の地に九つの頭を持つ龍のようなものが流れ着き、それを御神体として奉斎したのが当社の始まりと伝えられ、・・
流れ着いた「ようなもの」と表現されているが、次の記事では「木の枝」と言っている。その「のようなもの」は御神体になるわけだが、現在もお堂の中に収められているのだろうか。今も存在するなら現在の木材鑑定技術でその流木の存在した時期がわかるかもしれない、
多摩市関戸狼谷戸在住の古老「井上正吉」氏(大正8年生まれ)が神職田代貫次氏(大正15年生まれ)に話した内容を田代氏が著書「九頭龍神社」14pに掲載。平成11年の発行時の聞き取りになる。
井上正吉氏談
「この九頭龍さまは、古い昔のことで、何時代ということが判らないので、中世ということにして、昔話として話をするのですが、或る時の大洪水の時、多摩川を流れてきたものを、たまたま川岸に居った人が岸に引き上げたのです。
流れて来たものは、木の枝が九ッに分かれており、その頭と思われるところが龍の顔に見えたので、これは上流でお祠りされていた神社が、大雨で流されて、ここまで流れて来たのに相違ないと思い、近隣の人数人に話しかけた。その集った人達も、これは龍神様に違いないということになり、九ッの頭がある龍神様であれば、九頭龍様という神様であろうとして、どこかにお祀りしたらよかろうかということになり、話し合いの末<古茂川の新田方向六畝歩>という処に小祠を造ってお祀りされることになった。」と話された。
※現在は川崎街道を挟んだ反対側、九頭龍公園の一画に移されている。
※古茂川 日野市の程久保川から大栗川に流れる用水。一ノ宮の小野神社付近で分流し、聖蹟桜ヶ丘駅を暗渠で通過、九頭龍公園の現九頭龍神社の裏を通り、大栗川にそそぐ。
同書には、井上正吉著「多摩のかたりべ」(発行昭和54年)の記事も掲載されている。17p
こちらには「木の枝」の表現はないが、聞き書きではなく語り部本人の文章になる。
「九頭龍様」
「関戸の人々にとって、昔から縁の深い神様に九頭さまがあります。現在の京王線聖蹟桜ヶ丘の東方約五十メートルぐらい離れた所に<古茂川の新田方向六畝歩>という地域があります。
その間道沿いのやや小高くなっている所があって、昔の多摩川は、洪水の度に氾濫がおき、河原には中洲が出来たと思われます。
一番近い大洪水は、明治四十三年だと古老は言います。この洪水は凄まじい限りで、今でも語り草になっている程です。
この時、関戸にある耕地は全部水没したのですが、奇しくも、一之宮神社(現 小野神社)の森と、ここ九頭龍さまの丘だけが、水没をまぬがれたといいます。
さて、この九頭龍さまは、中世のある大洪水の時に、川上から流されて来たと聞きます。もとは、九月一日・二日を祭日としていたのですが、丁度二百十日の荒れ日でもありましたので。これを鎮める神として祠ったらしいのですが、頭が九ッということは、かの八岐の大蛇の故事にも出てくるあたりから、何か、かかわりがあるようで面白いです。
この神様は、子供の歯痛を和らげる神としても崇敬をあつめていました。祈願して治ると、山の萩を切って来て束ね奉納しました。ですから何時も萩の小束が扉の前に供えられていたものです。が、今はその風習もすっかりすたれてしまいました。
ここの祭りは秋祭りの走りで、子供はたいそう楽しみにしていましたよ。」
このいきさつは多摩市史にも載っている。おおむね、前記と同じだから前記に無い部分のみ記す。
平成5年「多摩市史叢書(そうしょ)(七)多摩市の民俗
それをご神体として洪水を鎮めるために、祠ったのが始まりであるという。
祭神 建御名方命(たけみなかたのみこと)
平成9年「多摩市史 四 (民俗編) 第五章 信仰と祭り 第一節 神社の祭礼と行事
それをご神体として、洪水を鎮めるために祠り始めたという。
龍に似た赤い兜をかぶった白い蛇が、ときどき出たといわれている。
祭神は建御名方命である。
※この二書ではその「もの」を「ご神体」と具体的に表現している。
※この二書では祭神は建御名方命としているが、「新編武蔵風土記稿」に「建御名方命」と
書かれた棟札の存在を根拠とするらしい。神職である田代氏は異議を唱えている。
※棟札 建物の建築修築の記録として、棟木・梁など建物内部の高所に取り付けた札
この神社のできた経緯から考えると、祭神もまたご神体である「九頭龍さま」が納得しやすい。
ようだが、この神社は突然漂着した神の出現から始まった。漂着神と言うらしい。
その御神体九頭龍のような「もの」は果たしてこの小さな社殿に存しているのだろうか。
ちなみに、神社の案内書きにご祭神の言及はないが、「子供の虫歯を和らげる御神徳があるとして尊崇されており」とあるからご祭神は歯の神様でもある九頭龍大神でいいのかもしれない。
ところで、上流を遡ると秋川沿いの檜原村数馬に九頭龍神社がある。その神社から龍神が流れ来たのだろうか。伝承に確かめる術があろうわけがない。
他に近辺に九頭龍を祀る神社はない。
檜原村九頭龍神社 1545年室町時代に戸隠神社別宮九頭龍社から勧請。
九頭龍は南朝の守護神で武運の神。
祭神 九頭龍大神 天手力雄命(あまのたぢからおのみこと)
※田代氏は天手力雄命荒魂でないかとの異論を指摘する、
戸隠神社別宮九頭龍社 他の社以前から地主神九頭龍大神が祀られていた。
祭神 九頭龍大神 天手力雄命荒魂(あまのたぢからおのみことあらみたま)
(別名 天岩戸守神)
戸隠神社 天岩戸を開いた神々を祭る。天岩戸が天から落ちて戸隠山ができた。
本社(奥社)の祭神 天手力雄命(あまのたぢからおのみこと)
※檜原村九頭龍神社がこちらを祭神にしているのを田代氏は訂正を指摘している。
地主神 その土地に住む神。
その土地に宿る神霊が祟りを起こさせないように、その地主神よりも霊威の強い神を新たに勧請して祀ったのが鎮守神。地主神は鎮守神に服属したが、ときには地主神が抵抗し祟りを起こすこともあった。
しかし、時代とともに地主神との混同が起こり、両者は習合する結果となった。
豪族が祀る一族神としての氏神の霊威に対抗する形で、村落に鎮守として神社を祀るようになった
鎮守神(ちんじゅがみ) 地域を守るために祀られた神
神仏習合と神仏判然令
明治の初め、神仏習合が進んでいた宗教状況をよしとしなかった明治政府が「神仏分離令」「神仏判然令」を出した。例えば「権現」は仏教の菩薩が神の姿で現れたものだ。神社の祭神をはっきりさせるようにということだが、そのさい古事記、日本書紀など日本神話の神を祭神に推奨した。
町や村の鎮守であるだろう小さな神社に、日本神話の神々の名が並んでいるのを不思議に思うことがあるがそうした事情があったかもしれない。
明神
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曖昧さ回避 この項目では、「みょうじん」と読む神号について説明しています。「あきつみかみ」と読む明神については「現人神」をご覧ください。
明神(みょうじん)は、日本の神仏習合における仏教的な神の称号の一つ。
歴史
古代において神を指す名称としては、神社名を冠した「大神」という呼び方が存在していた。また『続日本紀』天平2年(730年)10月29日条などにある「名神」号は朝廷における社格制度として存在していた。「明神」という言葉が文献上最初に現れたのは、天平3年(731年)の奥書を持つ『住吉大社神代記』であり、そこでは住吉大社の祭神である「底筒男命・中筒男命・表筒男命」の三柱を「住吉大明神」と記している[1]。ただしこの史料の製作年代は元慶3年(879年)以降の天暦(947年 - 957年)および長保年代(999年 - 1003年)以前であると見られている[1]。また『門葉記』には貞観9年(869年)に成立した『壱道記』から引いたという形で、円仁が「伊勢大明神」や「春日大明神」などを十二支の「如法経守護神」として定めたという記述がある[2]。確実に当時のものと言える記述は、『日本三代実録』仁和2年(886年)8月7日条にある「松尾大明神(松尾大社)」というものである[3]。いずれにせよ10世紀には大明神号が使用されていたことは確かである。
以降平安時代における記述においては特別に崇敬される神が明神もしくは大明神と呼ばれていた。同一資料において同じ神を明神・大明神の両方で呼んでいる例もあり、明確な区別がされないこともあった[4]。今堀太逸は十一世紀の『神名帳』を調査し、正一位・従一位の神階をもつ『国内鎮守の神』が大明神という表記をされていたとしている[5]。
その後本地垂迹説の勃興により、これら大明神が日本の民を救済するために現れた仏教の仏の化身であると考えられるようになった[5]。仁平2年(1152年)以前に成立したと見られる『注好選』においては、釈迦が「大沙明神」として現世に現れたこと、また『悲華経』に「我滅度後、於末法中、現大明神、広度衆生」という言葉があるという事が紹介されている[6]。ただし、「我滅度後、於末法中、現大明神、広度衆生」のことばは、実際の悲華経には存在しない[1]。しかしこの認識は広まり、大明神号は仏教と関連していると考えられるようになった[7]。
中世から近世にかけて、神が本来の名前で呼ばれることは少なく、神社名を冠した「明神」や「権現」で呼ばれる事が通常であった[1](「鹿島大明神」「香取大明神」など)。また中世以降に成立した吉田神道では、神に対して「明神号」を授ける事が行われるようになった[8]。豊臣秀吉の没後には朝廷から豊国大明神の神号が追贈されている[9]。江戸時代初期には徳川家康の神号をめぐって、天海の「大権現」案と、以心崇伝の「大明神」案をめぐる論争が行われている。幕末期に岡山藩に弾圧された黒住教は、吉田家から黒住宗忠に対し明神号を許されたということを正統性の根拠としていた[10]。
明治元年(1868年)3月28日の神仏判然令により、神号における仏教由来の言語は取り除かれるよう指令された[11]。この法令では明神号自体は取り払うべき言葉としては示されていなかったものの、明神号はこの頃には仏教関連用語であると見られており、使用する神社は減少していった[12]。ただし現在でも「稲荷大明神」など明神号・大明神号を使用している神社は存在する[12]。
廃仏毀釈
明治初年,維新政府の神仏分離、神道国教化政策に基づいて起こった行き過ぎた仏教排斥,寺院・仏像・仏具破壊運動。1868年旧3月,太政官布告による神仏判然令によって神仏分離が急激に実施されると,平田派国学者の神官らが中心となって,各地で神社と習合していた寺院の仏堂,仏像,仏具などの破壊・撤去運動を起こし,隠岐のごときは全島の仏寺を破毀して1寺も残さなかった。1875年に信教の自由が保障されたが,この廃仏毀釈によって政府は宗教に対する政治優先の姿勢を確立した。
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