メモ 少女の誕生

かつて、「少年」という言葉には男子・女子の別はなかった。男子が進学する旧制中学校に対し女子高等学校が生まれたことができっかけで「少女」という言葉が生まれたらしい。

この少女という言葉に「清らかで、あやうくて、夢見がちで、不思議なもの」という少女幻想が加えられ少女文化が展開していくことになる。つまり、「少女」の誕生は明治になってからで、大正ロマンの少女画でのビジュアライズを経て、特有のイメージを獲得していく。


少女文化を育んだ雑誌の歴史

初めは大人のための雑誌しか無かった

少年雑誌の誕生

  分離 少女雑誌

       1902「少女界」

       昭和初期に少女雑誌の一大ブーム

         読者投稿欄から

         少女小説の登場


           吉屋信子「花物語」

            返らぬ少女の日の 

            ゆめに咲きし花の 

            かずかずを、いと 

            しき君達におくる


町田市文学館

少女たちのお手紙文化 1890ー1940 展   2024


第一章 少女の誕生 女学校が設立され女学生という集団が生まれたのが契機


明治期に入ると女子教育の重要性が叫ばれるようになり、私立の女学校が次々に創設されました。東京府下に官立(国立)の女学校を設立するよう布達された一八七二(明治五)年以降、小学校以上の教育機関での男女別学が法律上明文化されます。こうして中等教育をい受けるには、中学校には男子が、女学校には女子が入学することになりました。


女学生の誕生は<少女>という集合体が意識される契機ともなりました。それまで単に子供を意味していた<少年>という言葉は男子のみを表す言葉へと姿を変え、それとは別に、女子新たに<少女>と呼ばれるようになったのです。


大正末期には、高等女学校への進学者が全国で三十万人近くにのぼりました。女学生たちは、一九四七(昭和二十二)年に学校教育法で現行の学制<六三四制>が定められ、女学校が姿を消すまでのおよそ半世紀の間、独自の少女趣味を開花させてゆくことになります。

多摩市・景

-丘の町の風景図録- 「多摩丘陵」の、その「多摩」の名を持つ多摩村は拓かれ公園市へと変貌した。今は見えにくくなった丘の起伏を行くと、渡る風にゆらぐ木漏れ日に、3万年の森の時がよぎる。この土地の記憶するパラレルな光景への幻視行。 *パラレルワールド 現実と並行する世界が存在するという量子力学の仮説。重なっている時空。時に既視感(デジャブ・初めてなのに懐かしい景色)として覗く。アリスの見た夢。